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「思うがまゝに言うがまゝに」(第14回)遠藤武彦

「自作の演劇で千喜良校長と徹夜の交渉
       卒業式に全校生徒を前に壇上で挨拶」

 私が在学当時、米沢興譲館高校では卒業式を前に卒業生を送る恒例のイベントが行われていた。2年生の私は、「檻の中の人間」というタイトルの演劇をやろうと企画した。これは中野某という人の台本に基づく演劇で、その中にセックスまがいの描写部分があったから、学務主任の大井魁先生は「これは高校生としては相応しくない不穏当な演劇だ」と言って止めるように言った。私は「なんでやめなければならないんだ」と言い合いになり、大井先生は演劇をやめるか、その部分を修正するように私に迫った。私は学校ではしたい放題のことをやっていたから、先生が何を言っても聞く耳持たずといった感じだった。
 当時の校長は千喜良英之助先生だった。私は校長室に呼ばれて千喜良校長に恐ろしい顔でどやしつけられた。大井先生も必死になって理詰めてやめろとか書き直せとか言ったが、私はがんとして言う事を聞かない。話し合いは決着が付かず徹夜になったが、次の日が学年全体のスキー大会が開催される予定だったので、その時は時間切れの物別れになった。因みに、徹夜明けの私だったが結果は大会2位となった。
 果たして、その演劇は私の当初の内容で公演することになった。あの時に千喜良校長からは「貴様な、生意気なことを言うな」などの反権力思考と言われたが、それは後の遠藤武彦につながる話だ。

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千喜良英之助先生
(写真提供 山形県立
大井魁先生
米沢興譲館高校)

 後日潭だが、昭和50年、私は山形県議会議員選挙に初めて立候補して、選挙カーに乗って米沢市古志田町を回っていた時に、道路端に飛び出してきた人がいた。大井先生だった。そして「遠藤、がんばれよ」と手を振って大きな声で励ましてくれた。その時、高校を卒業して18年が過ぎていたが、卒業後に大井先生と会うのは初めてだった。そのようなこともあって米沢興譲館高校が米沢市笹野地区に移転するときに、大井先生の推薦でその委員にさせられた。
 3年生の時の担任は、米沢市下新田にお住まいの落合六郎先生だった。日焼けをして真っ黒な顔をしていたので、生徒からは「純クロ」というあだ名(ニックネーム)で呼ばれていた。私が演劇のことで、千喜良校長や大井先生に責められていた時も、「遠藤、いいから好きなようにしろ」と言って、自由気ままにさせてくれた先生だった。開拓で下新田に入った落合先生は、私の父、遠藤清海のことを知っていたからだろうか、私には大らかでちょっといないような先生だった。
 卒業式の時のこと。落合先生から、「遠藤、全校生徒の前で何か言っておけ」と突然に指名されて、私は演壇に登った。成績優秀により卒業生代表として答辞を述べる生徒としてではない。千喜良校長は私が卒業する前の年9月に校長を退任していて、その時は佐藤源治校長に変わっていた。先生たちからも私は特別扱いを受けていたのかなとその時に思った。 
 因みに、落合六郎先生の御子息は、九里学園高校で物理を教えた落合重雄先生である。同校を退職後、下新田の自宅で「そばしげ邸」を開かれている。(元農林水産大臣、米沢市在住)
 
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