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「思うがまゝに 言うがまゝに」(第5回)遠藤武彦

「敗戦の年春に南部小学校へ入学
     躾に厳しかった明治生まれの両親」

 大東亜戦争が敗戦となる昭和20年4月、私は南部小学校に入学した。入学式の日、父は私を馬に乗せて学校まで連れて行ったのだが、何か入学手続きの書類でも忘れたのか、慌てて馬を走らせて自宅に戻り、書類を持って戻ってきた。
 学校でケンカをして顔に傷などをつけて帰宅すると、父からはもう一遍ケンカして来いといわれた。
 ある日、学校の宿題で図画の宿題があった。生家に植えられた柿の絵を描いて持って行くと、その絵を見た先生から「誰かに描いてもらったのか」と言われた。そのことを父に話すと、父は猛烈に怒って、「何をぬかすか。にしゃ(私への呼称)、もう一回、先生の前で書け」と言ったのだ。私としては一度自分で描いているわけだから、二度目に書けば当然、出来栄はもっと良いわけである。父にはそんな厳しさがあった。
 ただ、体が弱くて学校はしょっちゅう休んでいるから成績は普通で、取り分けて抜群という科目はなかった。
 父から拳骨やキセルで頭を打たれたことは数知らず。精米技術が悪かった当時、炊いたご飯の中によく精米されていない米が混っていることがあった。私がそれを畳にピッと吐いた時のことだ。父が投げた焼き火箸が私の腕に思い切り当り、血が流れた。その時の傷が私の腕に勲章のように残っている。
 戦後まもなく、わが家には電話があったが、父はよく私に「置賜病院の髙橋哲郎院長に電話をかけろ」と言った。私がまごまごしていると、キセルでぶんなぐられた。「学問をしていながら電話番号も覚えていないのか」と怒る始末である。このように、父は結構、めちゃくちゃなところがあった。おかげで、あの当時の市内の電話番号を今もって諳んじている。

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自宅入口に建立されている
父、遠藤晴海の胸像(桜井祐一氏制作)

 子育ては、父親が厳しく母親が優しく、両親の二人三脚で育てるのが良い子育てに繋がるというが、わが家の場合は父親がとりわけ厳しく、おまけに母も明治生まれだから、何もいわない人だったが躾は厳しかった。
 ある年の師走、私は空に飛ばして遊ぶタコを買ってくれと母親にだだをこねた。すると、現在の自宅の前にあった池に、私は母親からほおり投げられたのだ。その池には水が張られていた。そこから私が這い上がろうとすると、母親が何かの棒で頭を押さえつけた。
 そんな厳しい両親だったが、父はしばしば「はや」という魚を捕まえに天王川に私を連れて行って一緒に遊んでくれたり、遠く秋田県の干拓事業を見に連れて行ってくれたこともあるなど、硬軟両方で私の子育てをしてくれたのかなと考えている。
 ただ、私が小学校低学年には姉はすでに結婚していて、姉夫婦が家督を継ぐという形になっていたから、「にしゃ、おまえは東京でもどこへでも行け」と言われたものだった。だから私は子ども心に家を継ぐという観念はなかったのである。大学に入らせてもらった頃、まさか故郷に帰るという気持ちは些かもなかったのである。それがどうだ、国会議員にまでさせてもらったのである。考えてもいなかったことであった。(元農林水産大臣、米沢市在住)

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