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「思うがまゝに言うがまゝに」(第10回)遠藤武彦

「父の厳しい躾は祖父孫蔵譲り
     明治13年、孫蔵が村会議員当選」

 ここで、少々父の実家、米沢市六郷町西江俣の遠藤家のことを記してみたい。
 父の実家の遠藤家現当主は、米沢市議会議員をされた遠藤宏三氏である。同氏が同家13代であることは既に触れた。
 私の父方の祖父にあたる遠藤孫蔵は、前戸主の遠藤典助に跡継ぎがいなかったため、明治9年2月、26歳の時に、同じ部落の堀越孫右衛門長男孫蔵が、典助の次女みんの婿養子に迎えられた。名字帯刀を許された家柄であったので、刀をさして来たという。その養父典助も実は、中田村の安倍冨右エ門次男典助が婿養子に入ったもので、遠藤家はこの頃、少なくても2代続けて婿養子を迎えて家名を守っている。
 孫蔵の長男である運蔵を偲んだ「遠藤運蔵翁追憶の書」という本が、高野悟一、上泉治の両氏によって昭和52年に発行されている。それによれば、孫蔵という人は、「優れた人物で、部落はもとより公共のためには惜しみない努力と犠牲を払った人で、広く地方民からその徳望を慕われたものである。また内にあっては子弟の教育には何をおいてもこれを優先させる配慮と努力を傾注した人であったという」と書いてある。
 しかし、同時に、他人には寛容であった孫蔵は、自ら持するに厳、且つ、家族―とりわけ子女の訓育には極めて厳格そのものであった、と記されている。祖父孫蔵の教育がこのようであったから、その子である父清海もこうした環境の中で育ったのである。父の長兄運蔵は、胡座(あぐら)をかくことも許されなかったという厳しい躾をされた。孫蔵は昭和4年に亡くなったから、私は孫蔵の生前には会ったことはない。明治13年、孫蔵が西江俣外5ケ村の村会議員に当選したことが、わが遠藤家の議員としての始まりである。

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筆者の祖父、遠藤孫蔵の議員当選証書
 明治13年10月7日(遠藤宏三氏所蔵)

 父は兄が1人、姉が3人の5人兄姉だった。父の長兄遠藤運蔵は、明治10年の生まれであるから父より21歳年上である。私が子供の頃に米沢市清水町(現在の米沢市中央2丁目)に住んでいた。運蔵を訪ねた時に、私は丸顔のこの人が祖父だと思っていたが、実は父の長兄だった。私が小学校6年生の時の昭和25年に亡くなった。
 運蔵は清水町に仙人みたいにして住んでいた。そこに、後に米沢市長になった長俊英氏が通っていた。私が行った時は、囲炉裏端で、洗いもしない茶碗にお湯をついで「飲め」と言われたことがある。
 運蔵は明治19年、米沢の小田切半之丞の私塾に入門して学び、同32年に現在の千葉県野田市にある醤油工場に半年ほど勤務、その後に東京に出て人力車の車夫をする。翌年秋、郷里に戻り、百姓をするが、大正9年、上山温泉で木材販売の事業を始め、同12年には米沢市で中央製材所を創立した。そして、同15年、製材所の廃材を使って浴場「こがね湯」を開くなど、順調な発展を遂げて中々の事業家だった。昭和7年、米沢市清水町に移り、独居生活をはじめた。昭和12年、米沢市議会議員に当選し、17年まで1期務めた。
 父、清海は昭和22年5月、米沢市議会議員に初当選し昭和44年2月まで務めたが、政治の道を歩んたのは、その家系とは全く無縁だったと思っている。(元農林水産大臣、米沢市在住)
 
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