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「思うがまゝに言うがまゝに」(第13回)遠藤武彦

「公演に呼んだ明治大学マンドリン部で純益
     ステレオ・テープレコーダーを学校に寄付」

 私が米沢興譲館高校在学中の昭和29年4月から昭和32年3月まで、常勤の音楽の先生は不在だった。音楽の滝沢美恵子先生は、昭和22年5月~昭和29年4月まで、山用千秋先生が昭和32年4月~昭和51年3月までの在任だったから、私が高校在学中は浜崎麟二先生が講師として教えに来ておられたという。たまに滝沢美恵子先生が学校に来て、ピアノを引いて生の演奏を聴かせてもらった記憶がある。

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25歳当時の滝沢美恵子先生
  (写真 滝沢美恵子氏)

 昭和30年代、明治大学マンドリンクラブやグリークラブは日本国中で大した人気だった。大東亜戦争の敗戦とともに、占領軍が日本に駐留してきて、ジャズ、ポップスなどアメリカ音楽が怒濤のように入ってきたせいもあるだろう。
 私は学校がそのような音楽教員のいない環境だったことから、明治大学マンドリンクラブを学校の講堂に呼んで演奏をしてもらおうと企画した。私は生徒会長でもなかったから、これはあくまで個人的な活動である。当時、米沢興譲館高校には女子生徒だけの一クラスあった。私は実行委員会を組織してチケットを作り、学校内で販売したほか、女子生徒に女子高である米沢東高校に行かせてチケットを売らせた。公演は昼、夜2回開催し、超満員となった。その営利金でハイファイステレオと東京通信機工業製(現ソニー)のテープレコーダーを買って学校に寄附した。各教室では、音楽やホームルームの時間を使って、順繰りとそのハイファイステレオでクラシックの名曲などを楽しんだのである。
 この演奏会で私に一生懸命に手伝ってくれた(実はそうでもなかったのだが)、行動がおっとりしていてとても利発そうな女子生徒がいた。一学年後輩の中川りう子である。この時はとりわけお互いに意識してはいなかったが、運命の赤い糸がその時に結ばれていたのか、それから5年後に私達は結婚することになった。

 私がハイファイステレオを寄附したのには背景があった。興譲館高校で八幡明さんという事務職員(昭和30年5月~同33年4月在任)がおられた。米沢市御廟に八幡さんの自宅があり、私はよく遊びに行った。というのも、この方は大の音響マニアだったからだ。障子張りの昔の家に、室内には大きなスピーカーが二つ置いてあり、響きを良くするためにフロアは固い板で頑丈にしていた。また天井から毛布をぶら下げて並べて、音が外に漏れないような工夫をするなど、ものすごく凝っていたのだ。
 私は学校が終わると、その家に入り浸りのようにして通った。八幡さんの家にはクラシックのレコード盤が多かったから、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲やチャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」などを、心臓がせり上がってくるような思いで聴いていた気がする。だから勉強はそっちのけで、しばしば授業を抜け出して、教科の先生には「遠藤はまたいないな」とぼやかれる始末となった。今はクラシックは縁遠い世界となって、もっぱら、中島みゆき、五輪真弓、河島英伍などを聴いている。(元農林水産大臣、米沢市在住)
 
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