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「思うがまゝに言うがまゝに」(第8回)遠藤武彦

「新制の米沢市立第一中学校に入学、
       自由と責任を教える校訓を身につける」

 昭和26年4月、私は米沢市立第一中学校に入学した。昭和22年4月、新制の小学校、中学校がスタートしたから、私は新制後4年目に入学したことになる。
 第一中学校の場所は、戦前は松岬高等小学校が置かれていた場所で、当時から鉄筋コンクリートの立派な校舎が建てられていた。敗戦後、昭和20年秋から同22年3月までは、占領軍である米第11空挺師団第675部隊が司令部を置いたが、米沢にいた占領軍が神町に移転し、同22年4月から米沢市立第一中学校として使われるようになった。
 私が入学した同26年当時もまだグランドはきちんと整備がなされておらず、生徒会が呼び掛けて全校生でグランド整地などを行ったことがある。また校庭にはきれいな歌壇を作った。
 体育の教師に「シェパ」と呼ばれていた先生がおられた。県内有数の陸上選手で、シェパード犬のように、早いということから「シェパ」の仇名がつけられたと聞いた。本人をよく観た仇名だったと思う。
 「シェパ」は小野川温泉「旭屋」の次男坊であったと聞く。私は体が弱く、いつも湯治に行って療養していた。「旭屋」での湯治も度々であったと思う。言わばひ弱な病弱少年だった。皮膚の弱い私だったのでプールの授業を免除してくれた。「シェパ」と私は顔見知りであった。「シェパ」は独り、荒れたグランドで石拾いをしていた。私は石拾いを手伝った。その私が日射病みたいになって「シェパ」に保健室に担ぎ込まれたこともある。私は手伝いのつもりが、かえって「シェパ」に負担をかけたことになる。世の中には、善意がかえって仇になることなどしばしばある。がっかりし、落ち込み、またそれも気づかない。私の人生も落ち込みの連続だったような気がする。何故、それをハネ返し、今日に至ったのか。笑いと涙のうちに語ることもそのうちあるだろう。

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米沢市立第一中学校初代校長
 日野照彦先生(写真提供 同校)

 初代校長は日野照彦先生といい、旧制第一高等学校から東京帝国大学法学部に進み、その後、同大学文学部に学び、大連高等商業学校に教員として赴任、昭和19年、米沢高等工業学校に転勤、そして戦後に米沢市立第一中学校校長となられたという変わった経歴の持ち主である。この辺の歴史は、日野照彦先生と家族ぐるみの付合いをされていた米沢駅前にある米沢楽器店代表の遠藤拓氏が詳しい。
 日野先生が旧制第一高等学校時代の恩師立澤剛先生は、戦後に学習院院長となった安倍能成先生とは旧制第一高等学校の同級生ということから、日野先生と安倍院長の繋がりができた。
 同23年5月18日、日野先生が校長在任中、安倍能成先生は第一中学校を訪れ、生徒全員の前で講演したが、その時に話されたのが「張自由之快翼負責任之重荷(自由の快翼を張り責任の重荷を負う)」というものだった。
 日野先生は、在任2年半で東京家庭裁判所に転勤されたが、私が入学した頃の第一中学校には、日野先生が残して行かれた教訓だと思うが、新しい日本人として生きていくという自由な雰囲気での教育のもと、のびのびとした教育がなされていたように思われる。だから、安倍能成先生が講演された「張自由之快翼負責任之重荷」という精神は、私達生徒の中に常に言い聞かされ暗誦されていたように思う。だけど私はさっぱり判らなかった。(元農林水産大臣、米沢市在住)

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